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対談

札幌在住の女性が震災後に石巻市で移動支援NPOの代表になった理由―Rera村島弘子さんインタビュー

フィラメントが2018年度、復興庁のFW:東北ハンズオン支援事業でご一緒した、特定非営利活動法人 移動支援Rera。代表の村島弘子さんにインタビューをしようと思ったきっかけは、東日本大震災の発生直後からずっと、石巻市で地域の人たちと一緒に移動支援を続けている村島さんが、札幌生まれ・札幌育ちということを知ったからです。代表としての想いや組織を運営していく上で気を付けていることなど、いろいろなお話をうかがいました。(聞き手:牧 美帆)

プロフィール

村島弘子(むらしま・ひろこ)

村島弘子(むらしま・ひろこ)

特定非営利活動法人 移動支援Rera 代表

東日本大震災発災を受け、2011年4月に宮城県石巻市に入り支援活動を開始。

2013年2月に移動支援ReraとしてNPO法人格を取得。代表に就任し現在に至る。

主な活動内容は障害者、高齢者、生活困窮者など、生きづらさを抱えた移動困難者の送迎。年間およそ2万人、7年半の累積送迎人数はのべ15万人以上。

また、移動を取り巻く課題を解決すべく、担い手の育成や政策提言にも取り組んでいる。

【目次】

「引き継ぎ係」という居場所を見つける

代表として覚悟を決めたきっかけ

海外での体験から得た学び

組織の試練を乗り越えて

 

 

「引き継ぎ係」という居場所を見つける

 

ーーフィラメント牧です。よろしくお願いします。今日はいろいろお話をおうかがいできればと思います。

 

村島:よろしくお願いしますー。

 

ーー村島さんはもともと札幌に拠点を持つ「NPO法人ホップ障害者地域生活支援センター」に所属するボランティアの一人として、石巻に入られたんですよね? もともと、障害者福祉に携わっていたのでしょうか?

 

村島:いえいえ! ホップの活動に参加したのは震災の発生後です。それまではまったく福祉とは接点がありませんでした。震災の頃は千葉で研究農場のスタッフとして牛飼いをしていました。

 

ーー意外。でも、そこからReraの前身となる活動の中心メンバーになっていったんですよね。

 

村島:ホップの他のメンバーは、私以外はみんな何らかの福祉の仕事を持っていました。1週間仕事を休んでホップから派遣されて、ボランティアをして、また自分の仕事に戻っていきます。周りは福祉・介護の経験者ばかりで、私は行きずりのボランティア。「こんなところにいてもいいんだろうか」という不安が日増しに募ってきました。

 

そんな自分に、ホップが引き継ぎ係という大切な仕事を任せてくれました。

新しく来た人に、「この人はこういう人です」「こういうところに送迎しています」「全体ミーティングではこんな話をしています」というのを、伝える人。

 

ーーめちゃめちゃ大事ですよね。情報が錯綜する慣れない土地で、すごく心強い存在。

 

村島:重宝してくれましたね。それで「もう1ヶ月頑張れるか?」と頼まれて、それがいつしか8年に(笑)

私は当時仕事をやめて来ていて、ずっと石巻にいたので、どんどん私が「現場に一番詳しい人」になっていきました。取材に来た人に「現地のリーダー」って勝手に書かれたり。

 

代表として覚悟を決めたきっかけ

 

ーー1年後にホップから独立してReraとして石巻を拠点に、活動しようとなった際には、村島さんがリーダーになりましたね。

 

村島:いや、代表になるつもりなんて、全然なかったんですよ!

 

ーーええっ、そうなんですか!?

 

村島:本当は、地元の人に、代表になってもらいたかったんです。だって、「外部の支援団体の活動を、地元の人が代表を引き継いで頑張っています」というストーリーの方が、みんなにも「支援したい!」と思ってもらいやすいですよね。

でも、他のメンバーは全員が被災者。生活再建のめどもたっていません。村島さんにやってほしいと言われ、納得はしましたが、仕方なく代表になった、というのが正直なところです。

 

ーー大変だったんですね。

 

村島:最初の頃は、辛かったですね。覚悟が決まってなかったから。スタッフにも、「私だけに決めさせないで。私はいつかここからいなくなるんだから」と言っていました。

 

ーー想像つかないですね……。

 

村島:いざとなったら、来週にでも出ていこう、くらいの気持ちでした。

だから荷物もすごく少なかったんです。

 

ーーもしかして、今もずっとそういう想いがあったりしますか?

 

村島:いえ。転機があったんですよ。2013年の5月に、団体の命運を懸けていた、すごく大きな助成金の申請に落ちてしまったんです。

 

ーーショックですね。

 

村島:その前年度は、初めて自分で書いた助成金の申請が通ったんですよ。1年間まるごと団体の運営ができる規模の助成金。だから、この助成金もひょっとしたら通るんじゃないかと期待していたんですよね……。

団体がお先真っ暗になったように感じたそのときに、石巻に住民票を移そうと初めて思いました。

 

ーーそれまでは、札幌にあったんですか?

 

村島:そうなんです。それまではReraを半年後も続けていく自信がなかった。自分は単なる「つなぎ」でしかない、という気持ちがどこかにありました。覚悟が足りなかった。

助成金に落ちたことが、石巻で、Reraの代表として覚悟を決めるきっかけになりました。そのケジメとして、住民票を移しました。いつまでいるかはわからないけど、とにかく“今”は住民票を移して腰を据えようと。

 

それに、帰れないですよね。みんな、「Reraがなくなったら困る」って言うんですよ。復興が進んでいても、視界に入らないところで、困っている人たちが、沢山います。

 

海外での体験から得た学び

 

ーーそもそも、村島さんが被災地にボランティアに行こうとしたきっかけは何だったのしょうか?

 

村島:震災発災当初、絶対に現地には人が足りていないだろうなと思ったんですよ。

牧さんは覚えてますか? 

「私たちにできることは、募金くらい」

「ボランティアも現地では逆に迷惑になる」

という意見が、当時メディアにあふれていたことを。

 

ーーああ、ありましたね。

 

村島:その報道を見たときに、自分の経験から「現場を知らない人が発する言葉は、あてにはならない。話半分で聞こう」という気持ちが湧きました。それで実際に現地に活動する団体にコンタクトを取って、状況を聞いてみたところ、やはり人は足りていなかった。それでホップとも繋がりました。

 

ーー村島さんがそのように考えたのは、どんな経験からでしょうか?

 

村島:海外を一人で旅行した経験が大きいですね。24歳のときに上海に行き、そこからモンゴルへ渡り、シベリア鉄道に乗って東欧からトルコへ行きました。

 

(モンゴルの風景。村島さんのブログより)

 

そこで資金が尽きたので一旦北海道に戻って仕事をし、今度は自転車で一人で北海道を半周し、オホーツク海のそばで牛飼いの仕事をして資金を貯め、今度はアラスカからアメリカ、メキシコ、ブラジルを旅しました。

 

ーーすごい! 私は親が厳しかったこともあって、そういう経験がないんですよね。

 

村島:うちも割と厳しかったですよ。ただ「あいつは夜逃げしてでもそういうことをやる奴だから、夜逃げするよりは許した方がマシだ」って(笑)兄弟は4人いますが、私以外はパスポートすら持っていない、真面目なサラリーマンです。

 

 

旅をしてみて感じたのが、「知らないことを知ってたつもりになったらだめだな」ということでした。

 

直接そこに行って、その現地の人になるべく近い立場の人にならないと、わからないこともたくさんあるというのを、学んだんです。

わかった気になっていても、実際にそこに足を運んで得た情報はぜんぜん違うんだなと。

それってすごく大切なことだと思うし、何より、現地に行ってその違いに気づくこと自体が面白い。私はその価値観を大事にしたい。

 

そして、いくつかのボランティア団体に問い合わせ、やはり「ボランティアが足りていない」という状況を知り、被災地に向かいました。

そして実際に現場を目の当たりにして、自分の感覚は間違っていなかったと感じました。

 

(村島さんが2011年4月に現地で撮影した写真。村島さんのブログより)

 

(自分勝手に被災地に行った個人ボランティアが現地で迷惑をかけるという事例も現実にあります。ちゃんと現地の情報収集をした上で“自己完結”で行くことが大前提です。)

 

村島:私は自転車での長期旅行や、農作業、牛飼いの経験から体力はそこそこあるし、寝袋での生活にも慣れています。ひょっとしたらボランティアで何かの役に立つんじゃないかと思いました。自動車はペーパードライバーですが、リフトやショベルなどは乗っていたし大型特殊免許を持ってたので。

実際に行ってみたら、福祉車両を使った送迎で、全然役に立たなかったんですけど(笑)

 

ーーなるほど。海外や自転車で北海道を巡った経験から、実際の震災発生時にも、情報に惑わされず、フットワーク軽く行動できたんですね。

 

組織の試練を乗り越えて

 

ーーReraをやっていて一番大変だったことはなんでしょうか?

 

村島:一度、大きな組織崩壊の危機があって。そのときが一番大変でした。

当時のスタッフに裏切られてしまったことがあったんです。そのまま行方をくらまされ、結果的に信頼して応援してくれている多くの人の好意を裏切るような形になってしまいました。

 

――長く一緒に活動していた人だったんですか?

 

村島:そう。それだけにみんなにも衝撃が大きくて。

 

当時の私はとてもピリピリしていて、誰もいない事務所で床に椅子を投げつけたら、自分に跳ね返って来て眼窩底骨折をしてしまいました(苦笑)

しかもその日は助成金の締切日で、その助成金の申請は落ちてしまったんです。

メンバーとも意思疎通がうまくいかず、本当にどん底でした。

でも、助言をしてくれ、救い出してくれた人たちもいました。おかげで、「どん底だから、あとはよくなっていくしかないな」と思えるようになりました。

今から振り返れば、それまで溜まっていた膿が、ブチュッと潰れて出てきたタイミングだったんだなと思います。

 

ーーその経験から、今はこういうことに気をつけている、というのはありますか?

 

村島:コミュニケーションですね。毎月1回のスタッフミーティングを大切にしています。送迎も全部お休みにし、スタッフは基本全員参加。団体の運営方針や課題の共有、メンバーの意見やアイディア出しをしています。私はほとんど意見を言いません。

最初の頃の会議は、私が司会進行をして、説明も私がして、みんなは黙ってそれを聞いて、最後に「いいです」みたいな感じだったんです。

それを、外部のファシリテータを入れて、その人に進行をしてもらう形に変えました。

 

ーー意見を出しやすい形に変えたんですね。

 

村島:はい。理事も見直して、外部の人を半分入れました。

 

とにかく窓を開けて、空気を入れ替える。外からの意見を取り入れながら、中の声をちゃんと引っ張りだすことを心がけています。

 

それで組織も生き返り、2019年現在も続いています。

 

また、今は朝6時半に集合して、スタッフミーティングをしていますが、その仕組みを変えようと思っています。

代表が自分の人生の大部分を削って費やす組織は、長持ちしないと思うんですよね。

だって、その代表者に誰もなりたくないじゃないですか。

私が今、村島弘子じゃない赤の他人だったとして、私みたいな人を見たら、絶対なりたくないって思います。その分、いっぱいお給料もらっているなら話は別かもですが(笑)

 

もちろん、「社会課題の為なら」と高い理想を掲げている方もいます。それも大切なことですが、私はそれだけでは不十分な気がしています。受益者だけじゃなくて支援者も、関わっている人も幸せになる。そうしないと組織は持たない。

 

だからうちの組織は今でも発展途上、まだまだ弱いと思っています。被災地で名だたるハードワークの団体になってしまっている今の状態が必ずしもいいと思わないし、もっと「自分を犠牲にしている」と思われない生き方をするのは大事だなと。「私も“村島”になりたい」と思ってもらえるような働き方をしていきたいと思っています。

 

ーーありがとうございました。村島さんに憧れる人は、きっとたくさんいると思います。

 


 

移動支援Reraは、東日本大震災の発生時から継続して、石巻地域に住む人々の移動の支援を続けています。2011年度は無償、それ以降はガソリン代の実費のみを利用者からもらって移動を支援しています。その数は、1年間でのべ2万人、累計でのべ15万人にも及びます。

 

先のフィラメントの記事では、女川町から何10kmも離れた石巻市内の病院で、透析を続けるご夫婦をご紹介しました。

Reraがなくなったら生活が立ち行かなくなる人たちが、今でもたくさんいます。

 

そんなReraの主な財源は、インタビューの中にも出てきた助成金、そして寄付金です。

 

石巻市の支援団体、まだまだ元気な私達には、どこか遠いものに感じるかもしれません。

しかし、11月にThe DECKで開催したアイデアソンの中で生まれ、村島さんも「使わせてもらいたい」と言っていたのが、「隣に座るのは未来のあなた」という言葉。

Reraの活動、そして移動の課題が被災地だけではなく、日本全体の課題として広く認知されることは、未来のあなたや、あなたの大切な人を助けることに繋がる可能性があります。

Reraの活動を応援することで、「移動」のムーブメントを一緒に日本で起こしませんか?

 

 

赤い羽根みやぎチャレンジプロジェクト(3/31まで)

 

 

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